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筋電メディカル徒然日記

2021年02月05日

徒然日記 04
老々介護の典型

森谷敏夫博士の理論を語る前に、ちょっと私のことも書いておくことにしよう!
母は、27歳の頃からがんを患い69歳で他界するまで3つのがんと共存した。亡くなった時、主治医は「がんで亡くなったとは言えませんね!」と、訳の分からないことを言っていたが、確かに40年間いろいろながんと共存したのだから、彼女の寿命、天寿を全うしたと言えなくもない。亡くなるまで母の面倒を看たのは、父であった。その頃の私は、まだ働き盛りで、特に出版社勤務だから朝も夜もなかった。時々、母の様子を覗き見に訪ねる程度で、お見舞いと言ってもいい。70歳近い母の介護を、70歳を過ぎた父が面倒を看たのだから、老々介護の典型だったのだ。
 
その父が亡くなったのは、あの東北地方太平洋沖地震の年だった。その日、私は父の検査をしてくれている病院から、主治医の病院に検査結果と共に父を移す予定で赤坂のオフィスに車で来ていた。さて、そろそろ病院に迎えに行こうと、車の鍵を開けて時計を見た。少し早いか!煙草を一服、できるな!エンジンをかけて、外に出た。ポケットをまさぐっていた時だった。細い路地を六本木方面から、今まで聞いたことの無い“ざわざわ”とした音が近づいてきた。そして、この世とも思えない揺れを感じた。オフィスの前のビルの壁面は、ガラス張りである。そのガラスが反るように感じられた。
おさまった直後、車に飛び乗り、駐車場から飛び出た。ちょうど国会議事堂の前のT字路だった。向かいは、皇居のお濠。信号が赤に変わった。波が来た!車が舟になったように感じる。横揺れ、斜め揺れ、大波に接したボートの様であった。瞬間、左のウインカーを右に変えた。
 
父は、病院にいるのだから取り敢えず安心だった。それよりも自分の家や家族が心配になったのだ。その日から4カ月後に父は、がんで身罷った。まさか、私がずっと付き添って看病してくれるとは、思っていなかったのかも知れない。私を見ると、いつも手を合わせた。私は、神でも仏でもない。仲の良かった親戚、そして父が一番可愛がっていた叔母、唯一の親友に知らせ、最期のお別れをしてもらった。急なことだから、父は自分の病気が死に繋がっているとは、気がつかなかったようだ。
7月、親友は毎日のように父を見舞ってくれた。「おい、明日も来るからな!」もう酸素マスクをしている父からの答えはなかった。看護師さんに「じゃあ、また明日来ますから」と帰り支度をする私は「今日は、付き添っていたほうがいいですよ」と言われた。病院1階の長い廊下の暗い待合室のベンチで紙袋を枕にイヤホーンを付けていた。流れているのは、ゴッドファーザーの愛のテーマだった。“♪窓から逃がして、そっと二人で見送ろう♪”ちょうどこの歌手とダブって看護師さんが私の名前を呼んでいた。たった4カ月の老々介護であった。
ちょうどその前に家人が母を3年、父を3年続けた介護をしていたのを見ていた。計6年もの長さであった。私自身、手伝いはできても義母・義父への細かい介護などできない。家人のそれまでの性格からは、ここまで自分を犠牲にして献身するとは想像だにしていなかった。これには、感服する以外は無かった。それを見ていたので、87歳の父へ、4カ月の献身ができたのだと思う。

高松市菊池寛記念館名誉館長
文藝春秋社友
菊池 夏樹