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筋電メディカル徒然日記

2021年12月10日

徒然日記 48
私の病に対する心情

確か大厄になる少し前のことだったと思う。当時は『オール讀物』という小説雑誌の編集者を務めていた。
編集者としては、薹(とう)が立っていたから担当させていただいている作家も漫画家も多い。毎月埋めなければならない頁も多く、寝る暇も惜しむように働いていた。だが、苦痛ではない。今から思うと一番面白かった時かも知れない。
 
朝早く起きて書く作家、サラリーマンと同じ頃に仕事に勤しむ作家、夕方から書き出す作家、夜中に書く作家と千差万別。こちらは、ひとりだから、皆に対応するためには寝る時間などない。月刊誌だから、ひと月中そんな状態ではないが月の半分は、ほとんど眠れぬ夜が続いた。今のようにFaxやスマホなどない時代、自分で動くしか術がない。
それに、小説には、挿絵が必要で作家の原稿を持って挿絵画家の仕事場に行く。読んでもらって、できあがった挿絵をいただきに上がらねばならない。そりゃ、もう忙しかった!
 
人間、度を超すと自虐的になる。寝不足、苦しみが楽しくなる。マゾの世界を覗いていたような気がする。救急車で印刷所から運ばれた。検査を受けて、即手術と決まる。何ということはない。ただの胆石である。が、祟りのようなもので生死をさまよっていたらしい。尾籠な話で申し訳ないが、胆嚢が完全に腐っていた。少し遅ければ死んでいたらしい。名誉の戦死ではない。ただのアホ死である。
 
しかも、その時に手術で切った穴が30年後に開いてしまったのだ!もう忘れていたことだった。ひとつ思い出させるのが、16針も縫った胸から臍上にかけての傷跡ぐらいだろうか?そこが、またパカっと開いた。誰が想像できます?また、救急車で運び込まれました。以前は、厚生年金病院といっていましたが、今は横文字、なんとかかんとかメディカルセンターとか、やたらに難しい。
手術が終わって執刀医から言われたことは、救急だったから、本来は腸にネットを巻くのが良いが、それはできなかったらしい。不謹慎だが、話を聞いている私の頭の中は焼き豚を想像していた。
 
いつまた起こるかわからない爆弾を抱えた。だが手術の次の日、朝から歩き出した。最初100メートル歩くのに1時間を要した。
自分で腹を割き、穴の開いた所に入ってしまった元気な腸を抜き取り、穴を縫い合わせ、切った腹を元に戻すことなど自分ではできない。お医者様にお願いしなければ、きっと途中で失神する。ただ、逆にそれだけをしていただいた後は、自分でしか回復作業ができないのである。
もちろん看護師さんたちがいる。ドクターもいる。が、治すのは、自分の力である。どれほど治したいかにかかっている。6人部屋のほとんどが私と同じ年寄りであったが、ベッドから出ようとしない。いつも寝たきり、たまにスリスリとトイレに行くくらい。それも壁にもたれ掛かるようにして!
 
私の住むマンションは大きく、人も多い。年寄りも多い。ほとんどが、腰が曲がり、そろそろと歩く。杖をつく。何か脳に異変でもあったろう人は、足だけではなく手も動かない様子。見ているのが辛い!可哀そうで辛いのではない!もし、何もしなければ、私もああなる。「昨日まであんなに元気だったのに」と言われたい。
筋電メディカルで今私は、最高に元気!75歳の男が100メートルダッシュをした。

高松市菊池寛記念館名誉館長
文藝春秋社友
菊池 夏樹