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筋電メディカル徒然日記

2021年01月15日

徒然日記 01
めざすはオリンピック

彼は、1950年に兵庫県に生まれた。小学6年生の時に彼は、運動会で鉄棒の模範演技を行うほどになっていたのである。運動にも学業にも、彼は天才的な才能があった。
 
中学2年の時に、空手部ができた。彼は、最初の空手部員になった。県立尼崎西高校に入り、今度は体操部に入った。部員は6名だった。担当の先生は、6人の前で「お前たちをかならずインターハイに出場させてやるからな!」と言う。中学の空手部の先生といい、高校の体操部の先生といい、彼は先生に恵まれた。高校では、夜10時まで、体操の練習に励んだ。それでも週に2度だけは、先生の家に泊まり込み勉強に励むことができた。7時から夜中の12時までの学習であった。「確か、月曜日と木曜日の2日だったと思うなぁ!」森谷敏夫先生は、昔を懐かしむように語ってくれる。体操部の先生の奥様が子供たちに握り飯とお茶を差し入れてくれたらしい。「そう言えばね、高校の体操部の時に終わりが10時だったんだよ!夜道を自転車でね、よく転んで怪我もよくしたんだ。普通の日でも風呂に入りながら寝てしまって、母にお前、死んじゃうよとよく言われたっけ」
 
「勉学と体操のバランスを上手くとれましたね!」と私が言うと、彼は「ボクは、昔から頭が良いのさ、中学の時からラジオも組み立てていてね、電気にも強かった」テレと誇りの入り混じった顔をする。
高校の体操部で頑張り抜いた彼は、高校総体、国体にも出場する選手となっていた。どの大会でも上位の成績を収めたのである。しかし、家は貧乏で、大学に行くのを躊躇せねばならなかった。その背中を押してくれたのが、母であった。母は「お前はね、すごく良い人たちにめぐり合う星に生まれたんだよ、何をためらってるんだい!大学に行って、頑張ってお金を稼げる人におなり!」この母の言葉がなかったら今の彼は無かったかも知れない。少なくとも、その後何か困ることがある時には、いつも母のその言葉を思い出して踏ん張ってきた。それともうひとり「4大に入れ!」と言ったのが中学の時の恩師空手部の先生だった。
 
彼は、オリンピック代表の中山彰規選手にあこがれを持っていた。中山選手の出身大学は、中京大学である。彼は、中京大学を選んだ。東の日本体育大学、西の中京大学と言われる体育には強い大学である。
「体育馬鹿ばっかりだったね、勉強なんか皆できゃしない学生ばかりだったよ」森谷先生は言う。
ともかく、中京大学は、あこがれの中山選手の出身校である。
 
彼は21歳の時、1976年7月からカナダで開催された第21回モントリオールオリンピックを目指すまでになった。当時は、兵庫県のみならず日本全国の体操選手から一目も二目もおかれる存在になっていたのである。
 
事件は、その時に起こったのだ!

高松市菊池寛記念館名誉館長
文藝春秋社友
菊池 夏樹

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