2021年02月12日
徒然日記 05
自宅に住み続けるということ
父が身罷った後、父と同じ家で暮らしていた叔母は、たった独りになってしまった。
叔母の娘は、40歳になる前に亡くなっている。その後、夫も娘を追うように逝った。そんな叔母を独り暮らしにさせるわけにはいかないと父は、叔母の住む家に越した。「老人でも、そばに住んでいりゃ生きてるか、死んでるか判るからね!」
その家は、祖父・菊池寛が自分の家を建てる前に借りた家で、80坪もあった。大正12年、小石川神明町で産声を上げた文藝春秋は、関東大震災の後、田端にある室生犀星氏の空き家に祖父と共に移った。室生犀星は、震災の恐怖で金沢に帰郷してしまったのだ。菊池寛は、住む家に困って田端に住む芥川龍之介に相談をした。芥川は、室生が金沢に帰ることを知っていたので、取り持ってくれたのだ。祖父は、たった2カ月ちょっと室生の家を借り、家を探した。家族だけではなく文藝春秋も背負っていたからだ。結局雑司ヶ谷鬼子母神近くの家は、91年も借り続けることになった。その家に、父と叔母、兄妹が住むこととなった。幸いその土地に2軒の家があり、渡り廊下で繋がっていた。
ところが、父が逝ってしまったのだ。叔母は、たった独りで住むことになった。父が亡くなって3カ月、私は叔母の世話のために、週に2回は叔母を訪ねた。週3回は、デイサービスの人が来て、叔母の身の周りの世話をしてくれる。その頃の叔母は、手を壁で支えないと部屋も歩けない状態だった。家は、急坂の途中にある。たまにヘルパーさんに連れられ外に出られても、車椅子でしか行動のとれない叔母にとっても大変な作業である。
ある日の朝、突然私のスマホが鳴った!嫌な予感!嫌な予感ほど的中するものだ。ヘルパーさんの事務所からの電話で、叔母の家で応答がないという。私は、飛んでいった!もしもの場合を考え、交番から警官に来てもらうことも頼んだ。ドヨンとした家の中、叔母の名を呼んでも応答がない!ベッドの脇に叔母が倒れていた。警官に、それを知らせた。警官が、叔母の脈を取っている。呆然と立って、それを観ている私の頭の中では、テレビのサスペンスに出てくる白墨で描かれた人の跡を見ている感じだった。「生きています!すぐに救急車を!」警官が私に向かって言うのを聞いているだけの私だった。後でスマホを確認すると、何行も119の番号が出てきた。
救急車で叔母は運ばれ、私が付き添った。お医者の話では、脳卒中で3日も倒れていたらしい。次はリハビリ病院、次は介護センター、3年の間、母の代わりにお乳をくれた叔母の世話をした。介護センターの車椅子で叔母は私に手を振り、エレベーターに乗るのをいつも見送ってくれた。叔母は、彼女の愛娘に逢えたと思う。だって優しい人だったもの。
だいぶ前、私のバンド仲間でキーボードを担当していた友人に「もう一度、昔の仲間でバンドを結成しないか?」と、持ち掛けたことがあった。「おやじの面倒が大変でさ、おやじが自分の家で死にたいと言ってさ」彼は、父親想いの優しいヤツだ。「無理だ、止めておけ、施設があるし」私が言っても、首を振るばかりである。父が亡くなり彼は住まいを後楽園から八王子に替えた。最近原因が判った。彼も脳溢血で倒れたらしいのだ!共倒れに、なってしまった!「だから、あれほどヤメろって!」とは、言えていない。