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筋電メディカル徒然日記

2021年06月11日

徒然日記 22
バトンタッチ

もう十数年経つ。私の父が80歳の前半だった!もう、そろそろ香川・高松への行き来も辛くなってきた頃であった。
 
高松は、祖父の郷里で、昭和町の図書館階上に祖父の菊池寛記念館がある。昭和町は、空港から高松港まで真っ直ぐに伸びた中心道路にある県庁や市庁、主だった銀行が軒を重ねる交差点を入った所にある。東京でいえば大手町か霞が関。ちょうど市庁を右に、祖父の銅像のある中央公園を左に見て行くのだが、地方の道はいやに長い。すぐそこに見える山の麓なのだが、歩くと汗をかく。父は、その記念館の名誉館長を務めていた。「そろそろ、お前にバトンタッチの頃だな」父は、寂し気に言った。自分の歳を再確認して寂しくなったのか、はたまた別の意味があったのかは、私には判らない。
ただ、1年中名誉館長として縛られているわけではない。年に2~3回ある用事のために行けばいいのだ。
 
父は、飛行機を嫌った。私が子供のころ羽田空港に行き、父を見送ったことは覚えている。当時は、今のように易々と外国の旅ができる時代ではなかった。国内線だった。水盃をして、見送ったのは覚えている。羽田のロビーのある建屋も小さく、YS11であろう小さな旅客機がプロペラを回す。家族の中で初めて父が飛行機に乗った。屋上が展望台で、タラップから手を振る父が偉そうに見えた。
空港の反対側には、駐車場がある。さほど自家用車を持たない時代だったからだろうか、その駐車場も小さい。小さな駐車場には、真っ赤な鳥居が大きく見えた。父が飛び立つと、母や叔母は、滑走路の脇に建つ羽田東急ホテルに向かった。1本だけの滑走路。ホテルの階上にある食堂の大きなガラス窓の下に、数機のYSが休んでいる。
それが、父が飛行機に乗った最初で最後だったに違いない。
 
不思議なもので、父は、戦時中飛行機を組み立てていた。どうも千葉か北海道か東北の何処かだ。
工学部に在籍していた父は、学徒動員で飛行機造りに廻されたらしい。「最後は、木材とぼろきれと、紙さ!」父が言っていた。きっと木と紙で自分が造った飛行機に命を賭けた兵隊さんの気持ちが知りたくなかったのだろう。いつも高松には、新幹線で往復をしていた。東京から岡山でマリンライナーが接続している。マリンライナーは、瀬戸内海を跨ぐ瀬戸大橋ができて走り出した。それまでは、宇高連絡船で渡らねばならなかったので、便利になった。
「名誉館長をお前にバトンタッチしたいが、頼みがある。お爺ちゃんの出身中学の先の校長先生が尽力くださって、記念館ができた!そのお方を大切にするんだぞ!」その言葉は、私の脳裏に焼き付いた。
バトンタッチをした頃の先生は、80歳を超えてもお元気で、かならずカメラを持って走り廻っておられた。フィルム式のカメラで、講演会場の雛壇式の客席を飛び廻っていた。奥様が先に車椅子に座られた。記念館を奥様の座る車椅子を先生が押されて、見て廻った。
その後、私は弔電を打つこととなった。背が低く、まるで狸の置物のような先生の身だが、いちだんと小さくなったような気がした。
今、先生は、お嬢様の押す車椅子に座っている。講演会場に来られても、一番奥で私と作家の対談を聞かれている。私からお顔が見えないのが残念だ。優しい素晴らしい先生だ!せめて立たせて、歩かせてあげたいのだが…。

高松市菊池寛記念館名誉館長
文藝春秋社友
菊池 夏樹