2021年06月18日
徒然日記 23
仲間たちとの別れ
私が赤ん坊の時、中耳炎で高熱が続き死の直前まで行ったと母は話していた。戦後すぐで薬など無い。父が紹介を受けて米軍の将校トロッターさんに会いに行った。彼は、紙に包まれた緑の粉薬を渡しながら「水で溶いて注射なさい!赤ちゃんだから腕にしたら捥(も)ぎれます、必ず太腿に!」今でも私の左の太腿の内側に窪みがある。
小学校から受験校の暁星に通い始めた。高校3年は、各々の受験のために殆ど授業がない。2年の終わりに軽音楽部が講堂でライブをやった。バンド名はXL-4。我々も仲間たちと受験が終わったらバンドを組もうと言って別れを惜しんだ。高校3年の3月、ほとんどの仲間の進学先が決まった。言い出したのは、XL-4でリードギターを弾いていた奴だった。バンドの名は、The XL-4。ちゃっかり頂戴した。ギター以外は、楽器を触ったことも無い我々だった。私は、ドラムを担当した。
爺さんの遺した家は大きく、樹木に囲われたパーティーができるほどの大広間があった。そこが、我々の練習スタジオであった。授業の無い日は、バンドの特訓日である。大学に入って初めての夏休み、全てが練習と化した。渾名は、ペチョ!彼は、夏休み初めてできた大学の仲間と旅行の計画があった。その間だけは休みとした。ペチョが帰ってくると、また特訓が始まったが、旅に行く前よりペチョは「疲れた、休もう!」が多くなった。
その秋、晩秋だったか。ペチョは、危篤状態になった。仲間で見舞いに行った夜、帰らぬ人となった。白血病であった。あらたにペチョと仲がよかったマチャキがサイドギターを担当してバンドを再開した。
35~6歳の頃、同級生だった藤間亨から毎月夜中に電話が入るようになった。彼は日舞藤間流宗家家元藤間勘右衛門である。歌舞伎では、尾上辰之助として出ていた。友人仲間の呼び出しを私は断ったことがない。それに私が勤める出版社からは、紀尾井坂を3分も下れば彼の家だった。格子戸を開くと彼の付き人が待っている。いつも真夜中11時頃。舞台が跳ねてファンクラブや大量にチケットを買ってくれる客人と彼は呑んで帰ると、その時間になる。私も編集者だから夜遅いほうがよい。
彼は、よく本を読んでいた。もしかして新しい歌舞伎を書いてくれる作家を探していたのかも知れない。ほとんど世間話、井戸端会議だった。いつも朝方3時頃にお暇(いとま)をしていた。
その日も約束をしていた。格子戸で呼び鈴を押すと、付き人が「亨は、今肝臓を抱えて転げまわっています」
そのすぐ後に彼の訃報が届いた。男の大厄の1年前だった。
忙しくて、年中誘われてもゴルフに行けなかった。やっと仕事が楽になった63歳の頃サイドギターのマチャキに電話をかけた。「いつでも行けるよ」と。しかし彼の返事は「今は入院中だ!大腸癌で余命3ヵ月と言われたんだ」
彼の病室に飛んでいった。彼のテーブルの上にパソコンが置いてあり、待ち受け画面は孫の写真だった。医者の診立てが当たってしまった。
そして、先月ジローが逝った。メールで確かめると2020年3月16日に更新をしている。私が送った最後の言葉「コロナだけじゃなく、躰に気をつけろよ!ちょっと痩せたようだから!」徳光アナの弟、ミッツの父である。私は、豊洲の海に出て朧月を仰いだ。