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筋電メディカル徒然日記

2021年06月25日

徒然日記 24
生きるも覚悟が必要

前回は、とても辛気臭いことを書いてしまった。75歳を過ぎると段々友人が減ってくる。私のように、この歳でも引退もできずに動き回っているが、増える友より減る友のほうが多くなっていくのは仕方がない。
「人間は、どこから来て、どこに行くのか?」
これは、哲学や宗教に任せるとして、多くの友人を失って気が付くのは「残された者の命は大切にしなけりゃならない」ということだ。
 
今、世界中がコロナ禍にあってニュースでは「本日何人の方が亡くなった」と報告しているが、コロナ感染が拡大した頃、あるニュースで「コロナでの死は、溺れて死ぬのと同じで実に苦しいもの」と言っていた。私は、泳げない!だから水が怖い!子供の頃、溺れかけたことがあり、あの苦しさをニュースを観ながら思い出した。人は、生まれれば死ぬ!これは、脳の発達をした人間という生物の誰でも知っていることだ。
 
昔のお婆ちゃんやお爺ちゃんは「お迎えがまだ来ないんだ」などとよく言っていた。その言葉に「コロリ!」がいいなぁ!とかならず付け加えていたのを思い出す。しかし、それはなかなか難しいことだと最近はわかってきた。
私にとって、昔の爺さん婆さんは、60歳代だった。70歳を過ぎて死んでも「お早いですね」の挨拶は、可笑しいモノだった。それも、ちょっと前のことだ。70歳を越すといつ死んでも不思議ではなかったのだ。私の祖父は59歳でこの世を去った。私が父に「お爺ちゃんは若死にだったんだね!」と訊いた時「あの頃は、大体そんなモノだったよ」と返ってきた。たかが、70年前のことだ。
 
それからの平均寿命は、恐ろしく伸びていった。人間が誕生して長い時間をかけて進化をしてきたが、こんなに速い進化は無かったのではないか!寿命が延びるのはいい!しかし、楽しくなくて寿命だけが延びるなんて、これほど辛いものは無いだろう。コロナ禍の自粛生活だって、居たたまれなくなるのに、ベッドに寝たきりで生きていくのは、本当に「生きるということ」に反していると私は思うのだが、どうだろうか?「死も覚悟がなくてはならない」のと同じに「生きるも覚悟が必要」な時代になってきたような気がする。ただ何もせずに躰の赴くままでは「楽しい」に覚束ない。「楽しく、コロリ」が理想ならば、それなりの努力をせねばならないのだろう。
 
医療が進歩した。躰を侵され死に怯えなければならない友たち、私を置き去りにしてあの世に逝った家族や友たちに、今だったらいっぱいやってやれた知識や道具がある。「遅かった!」と臍(ほぞ)を噛む時もあり、「まだ間に合う!」と思う時もある。
私は、文学の中で生きてきた。文学も文字の通り学問のひとつ。「人間とは何ぞや!」を探求する学問だが、医学はもっと直截的で「人間の躰や脳の仕組み」を探求する学問だと思う。コンピューターが生まれ、医学の進歩が速くなった。だが、コンピューターが生まれたとて文学には、あまり貢献していない。
 
さて、文学の中だけで生きてきた私に、森谷敏夫京都大学の名誉教授という心強い知人を得ることができた。教授の知恵を借りて、私は「楽しく、幸せな、コロリ」を考えていきたいし、よければ今元気にしている仲間にも教授から得た知識をお裾分けしてやりたい!皆が、楽しく、幸せになるために……!
 

今回も、森谷教授からコメントをいただいた。
 
 
小生も71歳になろうとしていますが、菊池さんと一緒で友人が少しずつ欠けていきます。皆さん生活習慣病に罹ってお亡くなりになるケースがほとんどです。がんも35%が食事、30%が喫煙、10%は感染が原因で、実にがんの原因の65%は口から入るのです。多少の知識でがんの予防ができる可能性が高いのに……治ったとしても今度は別の病気で死ぬ可能性が高いので、「散る桜、残る桜も散る桜」で死から逃れることはできないのですが、できる限り心と体の健康を維持していけば、禅僧のように日々の瞬間を生きている、生かされている自分を悟ることができるのかもしれません。
 
少なくとも、空手の稽古時はこんな心境に少しずつ近づけてくれるように思います。

高松市菊池寛記念館名誉館長
文藝春秋社友
菊池 夏樹