2021年08月06日
徒然日記 30
橋の近くの珈琲店にて
都の西北、神田上水に江戸川橋という橋が架かる。この内側までが、その昔は江戸であった。橋を渡ると、今では桜で有名な公園があるが、当時、江戸に邪気が入らないようにと目白不動があった。
この道、真っ直ぐ行くと護国寺に突き当たる。そう、護国寺の参道であった。
今は面影が薄れてしまったが、私が子供の頃、二階家の店が連ねていた。突き当たりを左に行っても右に行っても、北に足を向ければ池袋から中山道に続く。五街道の一つつである。この五街道の江戸への入口に、邪気を払う五つの不動尊があった。目黄、目赤、目青、目白、目黒の五不動である。今では、目白と目黒が地名として残る。
目白不動の場合は、山手線に目白駅があるが、相当遠くに離れている。江戸川橋の北詰めの袂には、目白不動の面影は無い。しかし、神田川沿いに少し歩き、鬼子母神へ上る坂の途中の寺に安置されているらしい。
先ほどの参道は、今では、鳩山記念館の入口もあり、また少し先に出版社の光文社や講談社がある。
以前にも書いたが、地下鉄有楽町線の江戸川橋駅で降り、橋を渡らずに早稲田方面に1、2分歩くと行きつけの珈琲店がある。この辺は、太田道灌と村娘の会話に出てくる山吹の里、今では、山吹町という。
川の北側は小高くなっていて、今は椿山荘がある。そして田中角栄邸があった。高台から川に向けてのスロープ、私が子供の頃は東京も冬には頻繁に雪が降った。ガラクタの入った物置から、父が使っていたスキー板を引っ張り出してきては、細い坂を探して滑り降りたものだった。スキー板には、現在のようなビンディングは付いていなかった。鉄に皮のベルト、靴に2本のベルトをはめるだけ、ストックも竹でできていて、先には竹を丸く折り曲げたものに皮を十文字にして本体の竹に繋げていた。その頃、東京で一番急坂といわれていた細い道を、怪しげなスキー板を付け怪しげなストックを持ち、降りたものだ。
ちょうど降りたところの右に、先に書いた目白不動を預かる寺がある。この辺には、寺が多い。江戸時代の処刑場の跡だったと何かで読んだことがある。寺の先には、神田川が見える“面影橋”が架かる。処刑される罪人の最後の姿を、江戸の側から目に焼き付ける家族の姿が蘇る名の付けられた橋だ。
珈琲店には、私はドラム自己レッスンのためのスタジオに行く前に立ち寄る。週に二度、もう7年近く続けている。その時間に、顔なじみの老人たちが待っていてくれる。話は、釣り好きが自力で小さな漁船の模型を作ったことや、メダカの育て方等々、老人たちの集いだから毎回同じ話で、面白かろうとつまらなくてもどうでもいいのだ。安否確認なのだから。
妻に先立たれた80歳の爺様が、先日救急車で運ばれた。1か月半も音沙汰なしだ。皆が心配しているが、家を知らない。古めかしい携帯を家に置いたままの入院だったため、連絡できずに「スマン」と謝る。満身創痍、内臓、肺、そしてついに糖尿病とのこと。最近、杖を持つようになった。2500円で買ったと喜んで見せる。集いの中で一番若い爺が叱る。杖を持つと歩いても筋肉への負荷が分散してしまうから杖はやめろという。その通り、しかし私は、杖ではなく犬や馬の顔が手に付いたステッキに憧れている。爺は、お洒落もできないようだ。