2022年11月25日
徒然日記 96
女は強し、男は弱し!2
私の住むマンションは、以前石川島播磨重工業の造船のドックだった。石川島播磨重工業は、現在名称を変えてIHIとなっている。この地域は、江戸開府以来連続した埋め立て工事によって開発されてきた。
余談だが、私が編集者の頃に担当した作家故池波正太郎さんのヒット作『鬼平犯科帳』の主人公の長谷川平蔵が、火盗改メ方の長官を辞し、次に人足寄場の長官になった。この人足寄場の長官長谷川平蔵の尽力によってこの地の今の形が出来た。隅田川の河口辺りの開拓である。よく隅田川を大川と呼ぶが、江戸の昔は、1本の橋、千住大橋しかなかったと聞いたことがある。
今、大きな机に安政6年西暦で言えば1859年の地図を広げて見ているが、上流から千住大橋、東橋、両国橋、新大橋、永代橋と5本の橋が架かっているだけである。現在ある勝鬨橋などの下を流れる隅田川は、安政年間では河口であるから大川とは言わなかった。大川は、永代より上流であった。永代橋は、日本橋と深川を繋ぐ。
歌舞伎や講談、落語に出てくる江戸遊郭吉原は、明暦の大火(振袖火事)になる以前は、人形町にあった。安政の地図には、浅草寺裏手の日本堤に新吉原として書かれている。ちょうど同じころ京都西本願寺の直轄寺院の江戸の本願寺は、浅草御門南に建立されていたが、明暦の大火により本堂が焼失してしまった。そこで幕府からは、八丁堀の海上が下付され、佃島の門徒を中心に海を埋め立て、土地を築いて、そこに本願寺を移した。その地を今でも築地といい地名となった。
江戸湾隅田川の河口には、三つの島のかたまりがあった。ほとんど深川と隅田川を挟んだ松平越前守家(現在の聖路加病院の辺りか)の少し沖合である。佃島と橋で渡した漁師屋、石川島、御用地で、家康が築城にあたって、江戸湾に腕の立つ漁師が居ないのを知りわざわざ摂津国佃村から漁夫を呼び住まわせた。摂津の国は、今在の大阪北中部と兵庫南東辺りだと聞く。その漁師を佃衆と呼んだ。佃煮は、商売にならない雑魚を日持ち良くするために甘辛醤油で煮こみ佃衆が食べた賄いであった。
話を戻す!私の住まいは、石川島を含んで鬼平が埋め立て改良をした場所で、造船所の跡地である。島のひとつ古地図に書かれた御用地は、やはり漁師屋の一部に人足寄場を造った鬼平が、深川に向けて埋め立てをした。今では、地名を月島と言うが、昔は築島と書いたのではないかと密に私は思っている。さて、長々と江戸の庶民の街、深川、辰巳辺りのことを書いてきた。この辺りを現在では、豊洲と地名が付けられている。豊洲1丁目から3丁目辺りまで石川島播磨造船所があったので土地が広い。その一部と言っても敷地の広い土地に建つマンション。そこに、ハワイから来て住んでいる老夫婦が居た。よく近所のハワイ料理の店で見かけていた。奥さんは、外人ぽい方で旦那さんは、日系のように見えた。初めは、車椅子に奥さんを乗せて押していた夫が、弱くなってきた様子だった。手押しの車椅子から電動車椅子に替わり、夫にも介護の人が付くようになった。最近、夫の姿を見ない!電動車椅子を巧みに操縦する老奥方だけは、よく見かけるのだが……!