2021年02月26日
徒然日記 07
最期の挨拶
私がいくつか老々介護をしてきた話を書きました。父や義母、義父や叔母の介護は、私が、もう60代の中頃だったのです。ほんの昔だったら、とうに自分が介護される歳なんですよ!
介護した人にはお判りでしょうが、体力と我慢強さが必要です。我慢だって、今まで我慢していたようなモノではなくて、未知の我慢なんですね!話が通じないという我慢は、精神的ストレスが充満してきてボディーブローのように効いてきます。
父や叔母や義父母の歳になると耳が遠くなる。理解力もあてにならなくなってしまう!まだ、彼ら彼女らが若い時には一度言えば通じるものが、何度言っても判ってもらえない。脳だけではなく、あらゆる機能が衰えてしまう。話が通じないところに我慢しながら何度も何度も根気よく伝えるのは、介護している側としては、もの凄い重圧的なストレスが溜まるものです。
義父が義母を亡くし、ひとりで生活をしていました。最後には、我々が面倒を看なければならないと覚悟はしていましたが、デイサービスを頼みさえすれば何とかなる段階でした。義父の住む家は、東京と言っても西のはずれで我々の家からは、電車で2時間はかかる場所です。家人は、父親の面倒をよく看ていましたが、それでも1日おきに行くのが精いっぱい。私は、休みの時に家人を車で送るくらいしか役に立ちません。
ある日、義父の家に入って家人と目を合わせました。部屋の襖にも、冷蔵庫のドアにも「トイレ→です!」と、デイサービスの人が書いたであろう張り紙が、あちこちに貼られていたのです。誰が見たって、義父がトイレと間違え、そこら中に粗相をしていたに違いないのです。デイサービスの人達は、忍耐強く、工夫をして張り紙をしたのでしょう。我々は、覚悟の時を感じました。
義父の昔の写真に、並み居る兵隊の中でひとり彼が馬に乗っている写真を見たことを覚えていました。きっとその部隊では、偉かったのだと思います。優しい、もの静かな人で、怒った姿を見た覚えがありません。
家人は、何日も頻繁に義父の家があった役所に通いました。それを聞くたびに、こんなエネルギーがある人なんだ、こんな優しさを持った人なんだと驚きました。それまでは、実にクールな人だと思っていたからです。彼女の努力で、八王子の山の奥にある綺麗な介護施設に、義父は入居しました。家人は頻繁に、私は休日に彼女を車に乗せて、通いました。その頃には、義父は、車椅子生活でした。あのような施設は、あまり歩かせないで、車椅子移動をさせるのでしょう。そうでないと、介護士さんの手間がかかりすぎるからでしょうね。
ある日、我々が訪ねると、義父は、可愛いお婆ちゃんとふたりで手を握り合い椅子に座っていました。そして、我々に、お婆ちゃんを見ながら自分の妻が見舞いに来てくれたと言うのです。義母は、何年か前に亡くなっていて葬式にも義父を連れて行ったのに、もう覚えていないのでしょう!それも良いかも知れません、可愛いお婆ちゃんも、きっと同じような思いで義父に寄り添い面倒を看ていましたっけ!忘れるというのも良いモノです。
義父が、危篤になる何日か前、ふたりで訪ねた時に、驚きました。珈琲好きの義父に、とろみを付けた珈琲を飲ませていた時です。急に車椅子から立ち上がった義父が我々ふたりに言ったのです。有難う!丁寧にお辞儀をしながら!